是枝裕和監督『歩いても歩いても』で描かれる実家というしがらみ

文学
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是枝裕和監督の『歩いても歩いても』を観ました。

 

 

ある年代以上ならば、かならず思い当たることのある「実家」「血のつながり」に対する重い感情や、よきにつけ悪しきにつけ逃れることのできない、しがらみといったものを丹念に描いた作品。

 

実家。
自分の育ってきた家、たとえ十年も訪れていなくともそこに一歩足を踏み入れれば思い出すあの頃の空気感、消し去りたくとも回りがそうはさせない幼い頃のエピソードの数々。

 

お惣菜を作る台所のシーンや、逆光になった玄関のガラス戸、タイルのはがれた風呂場が印象的だ。
そして、実家といったらやはり母親なのである。

 

樹木希林演じる年老いた母は、包容力があり子思いであり少し愚痴っぽいごく普通の母親であるが、内に強い感情を秘めており、ときおりそれがあふれ出てきて、非常に怖かった。
でも母親ってたいていがそんな存在である。

 

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この人の撮る映画は文学だな、と思う。
登場人物が説明的な台詞を一切話さない。
けれどもある場面で、例えば黙って何かをじっと見ている人物の胸中が手に取るように分かってしまう。
もちろん映画というものは本来そういうものでなければいけないのだろうけど。

 

出てくる人は皆、とりとめもないことに関しては饒舌だが、「肝心なことは言葉にしない」「一番言いたいことは言わない」ように見える。
『誰も知らない』でもそうだった。

 

この監督は物語を提示するというよりも、人間の描写の方に重きを置いているのだろう。
地味だが、普遍的な力のある作品だった。

 

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