インド哲学を想起させる 小川洋子著「ブラフマンの埋葬」

ブラフマンの埋葬本と映画
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小川洋子「ブラフマンの埋葬」を読みました。
以下感想、あらすじ、ネタバレも含みます。

 

ブラフマンの埋葬

 

物語のなかで「僕」が飼っている動物の名前は「ブラフマン」。

 

自分が連想したのは、ブラフマンとアートマンでした。

ブラフマン(梵)は、インド哲学における宇宙を支配する原理で、アートマン(我)は個人を支配する原理。これらが同一であることを知ることが、 古代インドにおけるヴェーダの究極の悟り=梵我一如(ぼんがいちにょ)です。

 

そして、「僕」が管理人を務める「創作者の家」に住む創作者たち。
作家、詩人、哲学者、画家、音楽家、舞踏家…と色々で、彼らが「アートマン」という位置付けなのではないか?と感じました。

一様に我が強いように見える彼らに比して、「僕」や彼の飼う「ブラフマン」はその対極にいるように見えました。

 

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すべての小川洋子作品がそうであるように、物語は静かに、淡々と語られていきます。
その展開には、宇宙の秩序が及んでいるような印象すら感じられます。

ブラフマンの姿はこと細かに何度も描写されているけれど、結局のところ犬なのか何なのかわからなかった。だって水かきがあるという。。コツメアザラシだったらいいな ^^

 

「僕」が密かに心を寄せる、雑貨屋の娘。
彼女が一人だろう時間を見計らい、用事を作ってはさりげなく訪ねて行ったりする「僕」。
彼女の身だしなみなどをいつも観察し、そのふくらはぎがいかに白いか、について何度も言及する。

完全に心を奪われているが、当の彼女はちょいあばずれ。
本来は控えめで、執着心も強そうでない「僕」が、ストーカーじみたことをしてしまうのも彼女の毒が回ってしまったからか。
仲睦まじい彼女とその恋人の後を追い、古代墓地での逢瀬を盗み見するまでになってしまっている。

 

それにしても、わずか十数行のブラフマンの死の描写で、この物語はぱたりと終わる。
僕の感情表現など一切なし。場面描写のみ。鮮やかなラストと言えばそうである。
悲喜こもごもの感情処理はすべて読者の胸に委ねられる。

ブラフマンが死んだのも僕が一瞬、池で泳いでいるブラフマンの存在を忘れ、彼女のわがままな誘いを受け入れたから。(自分はこの出来事を、仏教の解脱までの道程の中で立ち現れる、「魔境」のようなものだと捉えた)
一行も書いてないけど、僕はこれからもそれに苦しむと思う。

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ところで、ブラフマンは最後に小さな悲鳴をあげた、それが僕が耳にした最初で最後のたった一回きりのブラフマンの声だった、というくだりがあったのけど、そこに妙に共感してしまった。

自分が飼っていたハムスターもそうだったんだ。
彼の声なんか聞いたことなかったのに、息をひきとる間際に、一声高い声を上げたのだ。
ハムスターが鳴く声をはじめて聞いた。

 

 

最後に、タイトルがなぜ「ブラフマンの埋葬」なのだろう、と思った。

ラストのページまで僕とブラフマンは愛し合い、その触れ合いを楽しんだのだから極端な話「ブラフマンとの愉快な日々」でもよかったはず。身もふたもないけどね。

埋葬に焦点を当てるとは、小川洋子らしいタイトルのつけ方だと思ったが、もしかしたら自分の読みが浅く、まだ物語の真髄を捉えきれてないのでは?とも思う。

 


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