『バベル』/ アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督

文学
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いかにもこの監督らしい作品だった。
 
 
場所と時間軸がめまぐるしく入替わる手法をとり(編集の若干の粗さは感じた)、立体的な世界観を演出する。
前作の『21グラム』も同様だった。
さまざまな事件や悲劇は起こるけれども、いわゆる悪人は一人も出てこない。
登場人物のそれぞれがその時できる範囲での自分のやり方で生きていて、それゆえに互いにぶつかったり、分かり合えなかったり、さらには分かり合おうと試みたりしている。
そういった世界の描き方には共感を覚える。
それは言ってみれば、神の視点だ。
それぞれの人間を見る目に、作り手の愛情が感じられる、と思った。
 
 
舞台は地球である。
どこまでも見渡せる広大なモロッコの大地、ほとんど人の気配のない南米国境の砂漠地帯、街全体を見渡せる東京の高層マンション最上階。
放たれた一発の弾丸を媒体として、それぞれの場にいる人間達の運命が交錯する。
人が大勢死ぬわけではない。だが、見る者の心を深くえぐるような作品は、死という展開などなしでも充分に刺激的であるのだ。
 
 
幼いマイクに「アメリアは悪い人なの?」と聞かれたとき彼女が返す台詞がこの作品の核を象徴的に表わしている。
「悪い人なんかではない。ただ愚かであるだけ」
これは、イニャリトゥ監督の人間に対する深い愛の言葉なのだ。
 
 
聾の女子高生チエコの存在は、作品の中で大変重要だった。
彼女の住む都会の喧騒のシーンの中に、ときおり、彼女が実際に生きている「音のない世界」がインサートされる。
これが非常に効果的だった。
我々はそのことで彼女の感じている疎外感を体感する。
母親にも自殺された彼女は、自分の生きる世界全体から拒絶されている、と感じていただろう。
 
 
ラストシーンで裸の彼女が父とつなぐ手は、この映画の象徴であり、救いであり、希望だ。
(次第に引いていくカメラワークがよかった。坂本の音楽もいい)
我々が世界とつながるためのその方法は、きっと、隣にいる人の手を握ることから始まるのだ。
 
 

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