『なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか』今枝仁 著

サイエンス
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山口県光市母子殺害事件の加害者実名をタイトルに記したルポルタージュ本が販売され、物議をかもしているようだが、これは2008年4月の発行。
加害者の元少年の弁護士が記した、内容の重い一冊だった。
こちらの著者もまた、当時大変なバッシングを受けた。
 
 
書かれたものには、生半可な気持ちだけでは決して成すことのできない、強い意思が読み取れる。
今枝仁という人物の、大きな覚悟が感じられる。
彼にはきっと、弁護士という仕事はきついだろうな。
気持ちが優しすぎると思うのだ。
 
 
加害者の元少年の生い立ちを初めて知った。
それ自体がすでに悲劇であり、読んでいてとても落ち込んだ。
罪を犯した人の生い立ちは、本当は、その罪とは切り離して考えねばならないのだとも思う。加害者の生い立ちがどうであれ、犯した罪そのものが裁かれなければいけないのだと思う。
 
 
それでもひとは、当然のことながら、突然大人になるわけではない。
過酷な幼少期 ~ 敬愛する実母が自殺する中学生時代まで、と、犯罪を犯した18歳の精神が、ひとつづきであったことは誰の想像にも難くない。
 
 
地獄というものはひとが作り出すのだなあ、と改めて思う。
それも、本人の意図せぬままに、例えばある出来事をきっかけにして悪循環にはまり込み、事がスパイラル上に堕ちていき、気づいたときにはすでに手のつけられない状況になってしまっている、という図式が圧倒的に多いのだろうと思う。
そして、誰もがそうなる可能性を持っている。
 
 
もしもそれを避けたいのならば、悪循環の入り口にくるや否やそのことを察知し、道を逸れなくてはならないのだと思う。
だって、足を踏み入れたら最後、戻ってくるのが難しくなるから。
分け入っても分け入ってもきりがなく、ただ自分を持ち崩す道が伸びているだけだから。
 
 
ひとたび足を踏み入れると容易には抜け出せない領域には入らない。それしかないのだと思う。
 
 
見ようが見まいが、地獄はそこに確かにあるのだ。
そこをクローズアップして見るのも、黙殺するのも、その人の自由。
一度そこが「気」になってしまうと、「気」にしないでいるのは困難だが、選択の権限は、どこまでも自分にある。
 
 

と、なぜか話が地獄スパイラル(笑)
戻ってくるのが困難につき、本の感想はまた後日。

 
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